SNSの政府介入に慎重 米最高裁、審理差し戻し
不適切投稿の削除などをめぐり、SNS運営企業の判断に州政府が介入することの是非が争われた訴訟で、米連邦最高裁は1日、政府による介入に慎重姿勢を示したうえで、審理を下級審に差し戻しました。今後は下級審が州の規則内容を精査しなおすとのことです。
この訴訟はメタ(旧フェイスブック)など、SNS各社を中心につくる業界団体「ネットチョイス」と、フロリダ州やテキサス州が争ってきました。これらの州ではSNS側の判断で不適切な投稿を削除したり、注意書きを付け加えたりする「コンテンツモデレーション(投稿監視)」を規制する法律が可決されていました。
規制の背景には2021年1月の連邦議会議事堂の襲撃事件後、フェイスブックなどがトランプ前大統領のアカウントを停止したことへの反発がありました。
ネットチョイス側は、投稿の監視自体がSNS運営企業による表現の一環だとして規制は憲法違反だと主張しておりました。一方テキサス州では、投稿監視は「検閲」であるとして規制は憲法違反にならないと主張したうえで、政治的な偏りを是正するために州法は必要だと訴えました。
また、裁判の過程でSNS運営企業が表現の自由が保障される「メディア」か、それとも「通信事業者」かも大きな争点となりましたが、最高裁は現時点では明確な判断を示しませんでした。
SNS運営企業を「メディア」とみなせば投稿監視も表現の自由として認められる可能性はありますが、「通信事業者」とみなされた場合、SNSへの全投稿は電報と同じように、投稿内容を見ずにそのまま届ける義務が発生する可能性があります。
この記事を読んで、数カ月前にSNS上でのいじめが原因で自殺した若者たちの遺族グループがSNS各社の経営陣に集団で抗議をしている様子をテレビで見たことを思い出しました。
今やSNSは日常の一部として、1日に1回も見ない、使わない人の方が少ないのではないでしょうか。
SNSでのいじめも、SNSを巧みに利用した政治活動も、すべては投稿者側の「言葉」によって紡がれているという前提があることを、彼らは忘れているのではないでしょうか。いくらSNS運営企業による監視・規制体制を整えたところで、ギリギリ規制に引っかからない言葉を巧みに利用する人こそが「加害者」となっているのではないでしょうか。「表現の自由」という言葉自体も非常にあいまいに感じます。規制するのも、攻撃するのも、情報を使って他人に影響を及ぼすことになっても自由なのでしょうか。SNSへの投稿をめぐる騒動は、元をたどればすべて人間関係の問題と言い換えることができると私は考えています。投稿する言葉を選んだ私たちのネットリテラシーが問い直されるべきなのではないでしょうか。私自身、SNSに限らず、仕事上においても使う言葉にはより気を付けなければならないと感じた記事でした。